ガス型


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2008年06月14日(Sat)
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ガス型

 過敏性腸症候群のガス型を治すのはかなり難しい。僕がお世話した過敏性腸症候群の人で完治が4割くらいだから、ガス型の人の確率が足を引っ張ってその数字になっているのだと思う。ただ、漢方仲間に言わせればそれでも異常に高い数字だから、余程難しい対象なのだろう。
薬局をやっていて、薬を出した方の4割にしか「よく効きました、ありがとう」と言ってもらえないとしたらかなり心苦しい。毎日色々な相談の方が来られるが、やはり7割の方に効いてもらわなければ心苦しくてやっておれない。その数字は毎月キープするように努めているし出来ている。だから仕事としてやれるのだ。医者も同じだと思う。いや、医者の場合は僕らよりもっともっと高度な知識や器具、強い薬を駆使できるから、ハードルは高く設定しているかもしれない。
 この半年の間に、過敏性腸症候群のガス型の治癒率が一気に上がった。毎月新しい相談を受けるが、9割くらいの確率で症状を軽減できている。この間、ガス型だけに限れば、100人近く新たに挑戦しているが、10数人だけが漢方を飲むのを止めている。この10数人は1回(2週間分)しか飲んでないので、本来は統計に入れる必要もないのかもしれない。いわゆるドクターショッピングで、色々な医療機関で期待を裏切られ続けたから、持続して治療を受ける気力を無くした人達だ。本人のせいではなく、医療機関の力不足なのだろうが、これから延々と病院をさまよい歩き、商業主義にはめられサプリメントなどと言うものに大切な自分の身体をゆだねるとしたら気の毒だ。
 実は確率が急に上がったのは、僕自身の昨年の思い出すだけでもぞっとする体験のおかげなのだ。それも好ましからぬ出来事のおかげなのだ。
 丁度昨年の今頃、僕は驚異的な労働を強いられていた。薬剤師に急に止めてもらうことになり、1人薬剤師として薬を作る作業を朝の5時から、夜の11時くらいまで毎日続けていた。2ヶ月くらいだと思う。特別養護老人ホームの110人分の薬を決まって作らなければならない。それも飲みやすいように錠剤を粉砕したり、一つの袋に数種類の薬を混ぜたりと簡単な作業ではなく、新たに導入した最新の調剤機械を駆使してもなお1日数時間はその為だけにとられた。8時から20時までは、いわゆる普通の業務(OTC販売、漢方相談、処方箋調剤)をこなした。不思議なことに疲れは全く感じなかった。四六時中高揚して充実感もあった。よく働いて、毎日ご褒美にビールを飲み、窓を開けて眠った。低体温の僕が、まるでサイボークにでもなったみたいだった。
 そうしているうちに娘が帰ってきてくれた。調剤専門薬局に勤めていた娘は驚くほど調剤に関しては技術を身につけていた。僕の仕事の半分以上を引き受けてくれた。やっと本来の僕の仕事量に戻れた。それでも止めなかった急ごしらえの習慣があった。それは気持ちが高揚したままよく食べよく飲み窓を開けっ放して寝ることだった。10月の半ばまで窓を開けて寝ていた。あまりの寒さで震えながら毎晩目を覚ましていた。寝る前の高揚感だけで開放して寝ていたのだが、本来僕はその様な熱量は身体には備えていない。
 ある朝目覚めると、抜けるように体がだるかった。仕事をしなければと思ったが、起きあがる気力も出てこなかった。体温を測ると僕にとってはまずまずの熱が出ていた。風邪を引いてしまったんだと思い薬を飲んだ。本来なら半日で解決できる。今までの経験で言うと半日あれば風邪を追い出せた。ところが昼が来ても夜が来ても、最高級の薬を飲んでいるはずなのに症状が全く軽減しない。僕にとっての最大のストレスは仕事を休むことだから、少し焦った。翌日も翌々日も同じように身体が重く、起きあがる気力も起こらなかった。おまけに食欲が全くなく、鼻の先に食事を運んでもらっても、それこそ一口も食べれなかった。体調不良でご飯が食べれないという経験は初めてだった。熱は平熱より1度高いくらいで推移した。微熱、食欲減退、倦怠感、この3重苦で仕事が出来ない。どうしても僕が応対しなければならない人の時だけ2階から降りた。1週間位するとそれでも少しずつ食べれるようになったが、体のだるさと微熱は改善しなかった。全く家から1歩も出ない日々が続き、心は鬱々としていた。しょちゅう体温計で測るが、漢方薬が効いている数時間だけ機械的に熱は下がったが、薬が血液中から消えると又元の木阿弥だった。息子は最初は何かの感染症だろうと言って興味を示さなかったが、さすがに1ヶ月も微熱が続くとガンかもしれないから、調べにおいでと言ってきた。実は僕もその事ばかりを最後の方は考えていたのだ。倦怠感を押して仕事は続けたが、頭の中にいつもその言葉が浮かぶようになった。毎晩激しい動悸で必ず目が覚めるようになった。激しく汗をかいていた。朝が来るのが待ちどおしかった。体より心の方がやられ始めていた。
 息子が勤めているところにいきたくても自分で車を運転する体力はなかった。帰ってきたばかりの娘と妻に全てを任せるのは心許なかった。タクシーで行っても途中で気分が悪くなりぶっ倒れるのではないかと心配した。そんなときある女性が連れて行ってあげると申し出てくれた。もう20年来漢方薬を出し続けている親しい人で、その人に頼むのは抵抗無かった。結局はある空白の時間を狙って妻が連れて行ってくれたのだが、人の親切がとても嬉しかった。何故か血液検査の数値も良くて、腫瘍マーカーもいっさい問題ないことが分かった。息子に何かクスリを出してと言ったら、こんな時こそ漢方薬と言ってクスリはくれなかった。食事がとれている人に点滴も必要ないと言った。意外と半病人には武器がないものだと驚いたが、病気が隠れていないことを判断してくれて、この日を境に一気に解放へと向かったのだが、問題は残されていた。
 病気でないのなら積極的に外出してやろうと考えた。1ヶ月近く太陽に当たっていないし、歩いてもいない、まして車の運転もしていない。外を歩けば、くらくらとして倒れそうになった。それでも少しずつ時間と距離を伸ばして歩くようにした。漢方の研究会があったので出席してみた。車も運転して岡山まで行った。2時間、好きなことだから意外と体はもって有意義に勉強出来た。喜んで車を運転して帰った。会場から、10分くらい走ったとき、信号で止まった。岡山市では一番大きな交差点だろうが、赤信号を2回から3回も我慢すれば必ず通過できる。いつものように待っていると急に息苦しくなってきた。それと同時にいいようもない焦燥感、何か込み上げてきて叫びたくなるような気持ちに襲われた。冷や汗が出てきて失神しそうになる。何の予兆もなく突然に始まった発作にあわてた。自分でパニックをおこしたのだとすぐに気が付いた。大声で歌い、口をすぼめて息を吐き、窓ガラスを開けた。いつ失神するかと冷や冷やだった。念のためアクセルから足をはなしておいた。やっとの思いで信号を脱出した。するとすぐに高架橋の上で又止まった。一瞬収まっていた症状がすぐに復活した。これが例のパニックなんだと、僕もこんな症状を起こすんだと情けなかったが、失神しないことだけを願って牛歩の歩みの車列を恨んだ。恐らく人生で最大の危機だと、パニックを起こしながらも考えた。やっと危機を脱して再び帰路に就いた。田舎に近づくにしたがって信号も気にならなかったが、バイパスの長い橋にさしかかったところで又同じ症状が出た。たた数十秒も走ればわたれるので、先ほどの症状ほど激しくはなかった。
 体力が少しずつ回復していたのでこの出来事はショックだった。日曜日、試みに町内を運転したが、信号で止まると動悸がし息切れがした。完全にトラウマとして残っていた。嘗て同じような患者さんを治したことがある。若い彼はダンプの運転手だったが、事故を起こした高架橋の下を通ると必ずえらくなり気を失いそうになると言っていた。全く彼と同じ状態だ。こんなにしんどいのかと、本当に彼の苦しみを理解してクスリを渡していたのかと、罪の意識すら感じた。ただ、彼も、その他の同じような人も治しているから、僕も必ず克服できるものだという予感はあった。この果てしない予期不安を克服しないと日常生活がかなりの制限を受けてしまう。この克服は緊急の課題だった。パニックと予期不安、病名を並べてもしょうがない。要は極度の体力の消耗から始まった一連の神経の衰弱を治せばいいのだ。本来僕がもっている繊細な、臆病な心が覗いただけなのだ。体力を回復し、気を強くする煎じ薬を飲めば絶対克服できると思った。現代医学なら安定剤か抗ウツ薬が定石だろうが、絶対それには手をつけまいと思った。いったん手をつけるとなんだか止めれないような気がするから。
 消化器系を強くする薬とパニックを抑える薬を両方早速飲み始めた。煎じ薬と粉薬で作ったが、美味しいと思った。真っ黒でとても美味しそうには見えないが、とても美味しかった。それの効果は夜の動悸と寝汗にすぐ現れた。飲んだ日から効果を感じて恐らく数日でそれは治ってしまったと記憶している。夜がまず怖くなくなった。日曜日を待って実験を行った。心配した妻が、いつも岡山に行くのを変更して玉野の教会まで付いてきてくれた。往復2時間、ミサが1時間。運転は全部自分がした。橋も信号も全く問題はなかった。ただ、心配な心は顔を持ち上げてくる。信号の度に、橋の度に心配にはなったけれど、症状は起こらなかった。翌週は、1人で同じ行動をとってみた。同じように懸念はその都度あったが、結局何の不都合も起こらなかった。次の週も次の週も行動範囲を拡げながら挑戦し、最終的には漢方薬を飲むのも忘れていた。ほぼ1ヶ月くらい飲んだだろうか。
 おかげで今は何の問題もなく、どんな渋滞でも問題ない。不運な体験でつかんだ処方だが、その後多くの人に役に立っている。予期不安、パニックなどはそのものの目的なのだから効くのは当然なのだが、一番幸運だったのは、過敏性腸症候群のガス漏れタイプの人がかなりの確率で改善していることだ。あれ以来、「繊細病」「考えすぎ病」にはこの処方を使っている。僕にはそれらで苦しんでいる人達の性格や心のありよう、果ては生き方まで手に取るように分かる。僕が僕の性格を好きなように、その人達がとても好きだ。その繊細さを失わず、とても大切な個性として持ち続けて欲しいと思う。その上で、気を強くもてるような煎じ薬で物事に動じないようにしてあげると「ガス漏れ」から解放されることに気が付いた。現代医学の逆だ。思考力を抑えてなんとか日常生活を送れるようにするのではなく、強い気持ちを持ってもらえるようにするのだ。そして、そこに笑いの一つでもあれば十分だ。治らないはずがない。だって、人を傷つけることもなく懸命に生きているんだもの。祝福されないはずがない。勇敢で攻撃的がいいはずがない。僕はそんな人間でなかったことを喜んでいる。それだからこそ今会えた人達がいることに感謝している。傷心でも臆病でもない、僕らは繊細なだけなんだ。それ以上何を望む。繊細だからこそ得たものがいっぱいあるはずだ。それを大切にすれば十分だ。繊細だから失ったものはなにだ。そんなもの必ず取りかえせれる。だって、自分の心の中にあるのだから手は延ばせば届く。
 何故こんな体験をよりによってさせられるのかと当時思ったが、これで若者の何人かが救われるなら当時のつらさは全部肯定できる。みんな似たり寄ったりと見えないだろうか。特別な人なんてそんなにいないのだ。良しにつけ悪しきにつけ。この年になってやっとそれが分かってきた。それが分かれば生きるってことは実は結構楽なものなのだ。早く気が付くことを祈っている。