栄町ヤマト薬局 - 2008/04
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漢方薬を初め、天然素材の薬を用いて、さまざまな慢性疾患の回復のお手伝い
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関東から突然来てくれた女性と話をしているときに、その女性と全く同じトラブルの女性が入ってきた。偶然県内の女性で何回も薬を取りに来ているので、親しみが沸いて我が家の中では珍しく○○ちゃんと名前で呼ぶ。
その○○ちゃんがとても嬉しそうな顔をして入ってきた。笑みがこぼれている。どんないいことがあったのかと思ったら、今日は1日中お腹が悪くなかったそうだ。それを絶対報告しようと来てくれたから体中で喜びを表していたのだろう。色白で、冷え性で、スリム、それに少しだけ心が優しすぎれば、1日中元気なんて至難の業だ。それが今日は100点に近かったのだから嬉しかったろう。その話を聞くだけで僕なんか嬉しくなる。2人のやりとりを聞いていた関東から来た女性を、○○ちゃんに紹介した。薬を作っている間2人で話をしていた。同じトラブルの人にあったことがないので、その機会が出来たことは、2人にとっても良いことだ。もっとも、2人とも僕の娘からは体験談を聞いているが、娘は今はスタッフだ。全く同じ立場同士の人と話すのは意義が深いだろう。それも、かなり克服できた人と、これから始める人の組み合わせだから、理想的だ。
お昼過ぎに来て、結局薬局が閉まる8時までいたが、その間、薬局の中にいた。薬局に色んな人が色んな訴えをしてくるのを見ていた。僕とおもしろおかしく会話し、薬を持って帰るのを見ていた。帰る前に彼女が印象を語ってくれた。彼女は8時間の間、とても安心してここにいたそうだ。彼女の住む街では、仕事は勿論通勤途中でもどこでも緊張しているらしい。常に競争原理が働いて、戦いのモードらしいのだ。飾らない人達と、飾れない薬剤師の奇妙なやりとりに驚いたかもしれない。権威も礼儀も何もない。あるのは、遠く関東の地から来た女性を、大切に思いやる心。僕の代わりに○○ちゃんがその女性に別れ際にかけてくれた言葉が最高のもてなしになった。過敏性腸症候群は青春の落とし穴。しかし、その穴に落ちた人だけが得られるものもある。他者をいたわる心、他者を傷つけないこと、謙遜であること。これらは本当はお腹以上に価値がある。ただ、見えるものに変えれないから、その価値に気がつかないのだ。その心を保ちながら、身体だけ元気にする。これが最近の僕の目標だ。
老婆
実際にあったこと。90年代、韓国である交通事故があり、2人が死亡し数人がけがをした。加害者は服役した。出所後その加害者を、事故で孫を失ったおばあさんが養子に迎えたそうだ。当時韓国では奇跡が起こったと言っていたらしい。人を許すことほど難しいものはない。それからしたら確かに奇跡に等しいだろう。しかし、世の中には奇跡に近いことをやってのける人がいるものだ。凡人の僕らとしたら、憎むことがあっても許すことはまず無い。僕らの些細な善意を1万人分集めてもおばあさん1人に太刀打ちできない。 おばあさんは、その男を見るたびに、孫を思いだしたのではないか。その男を見るたびに苦しむのではないか。その男を見なければ、孫を思い出すことも時間と共に少なくなるだろうに。若い出所後の人間が更正して生きて行くには、被害者家族の本当の許しが必要だ。おばあさんは、ひょっとしたら、苦しみを克服したのではなく、苦しみながら善を行ったのではないか。どうせ苦しむなら、善を行いながら苦しんだ方がいいと考えたのではないか。
世の中には苦しみが溢れている。家庭にも、自分自身の中にも溢れている。努力して懸命に頑張るのも苦しい。悪事をして逃げ回るのも苦しい。しかし同じ苦しさなら、「善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」。毎日多くの悲鳴が上がり、懸命にそれから逃げようとするが、苦しむ理由をほんの少しだけ生産的なものに変えてみれば意外と耐えられる。名もない老婆に教えられた人は多かったのではないか。
挨拶
日曜日の朝、9時前だったと思う。犬を連れてテニスコートの傍を通りかかった。日曜日だというのに、青のおそろいのジャージを着た男子中学生がテニスをやっていた。部活動なのだろう、コートから溢れた学生達が張り巡られたネットの近くで素振りをしていた。幼い顔をしているから低学年かもしれない。僕が近づくと、何人かがバラバラに「おはようございます」と挨拶をしてくれた。見ず知らずの僕に挨拶が出来るのはすごいなと思いながら僕も挨拶を返した。
何気ない挨拶だが、この柔らかい人間関係は価値がある。瀬戸内の穏やかな水面のように柔和な人間関係の中で、僕は子供達を育てたいと思っていた。少なくとも義務教育の間は、何にもましてこの人間関係を優先した。幼いときからの友達とよく遊び、弱いスポーツ少年団で身体を動かし、学校の宿題だけはする。これだけを満たしてくれれば十分だった。元々親もそんなに勉強が好きではないから、子供にだけ強いるようなことはしたくなかった。学校の勉強で十分だと思っていたから、塾には行かせなかった。子供達も行きたいとは言わなかった。受験のテクニックを磨いて、もう何十点稼ぎ出すことが人生で大切には思えなかった。それでもう1ランク上の学校に進んでも、人の役により立てると言う根拠は思いつかなかった。それよりもごく普通の人と同じ価値観を共有し、同じ地平で喜びや悲しみを分かち合える方が余程価値があると思った。
かたくなにごく普通を通して、本人達はどう思っているか分からないが、少しは人の役に立っている風だから、それでよしとしてもらおう。その下の世代をどう導くのか、僕の入っていける余地はないが、せめて少子化時代、過酷な競争を強いられることなく、のびのびと子供時代を過ごして欲しいと思っている。
ゴールデンウィーク
ニュース番組の中で、ゴールデンウイークが始まってなどと言っているのを聞いて、そうなのかと思った。全く意識の中になかった。昨年は、人並みに連休を全て休んで、旅行などと考えて、連休初日に家を出た。1日目だけ岐阜のホテルを予約して、後は気の向くままどこかでのんびりと過ごして帰ろうと思っていた。ところが、名古屋で患者さん2人に会い、岐阜で先輩に会ってしまうと、もう用が無くなってしまった。目的のない小さな旅を楽しもうと出て行ったのに、用が済んだら居心地が悪くなった。行きたいところもなく、観たいものもなく、目的のない旅で目的ばかりを探して、結局は1泊だけして帰ってきた。帰って、することが無く家にいたら、電話で開けてくれと言う依頼が続き、いつもと変わらないくらいの人を応対した。平生来れない人がゆっくりと来てくれて、結構充実した連休だった。その経験で、来年は家にいて、電話がかかってきた人だけ応対しようと決めていた。だから連休開始のニュースが磨りガラスの向こうの出来事のように思えた。
気力が衰えたのか、体力が衰えたのか、目を通していない情報誌が日に日に高さを増す。連休中にこの山を水平線の高さに戻すことが唯一の目標としている。悲しい性で何かしら目標を立てないと、時間を消化できないのだ。ボーっとすることがとても苦手なのだ。いつからこんな性格になったのだろう。仕事を始めてからだろうか。少なくとも学生時代は5年間もボーっとしていたのだから。その後の生活は5年間の埋め合わせのような気がする。どこかでつじつまを合わせられる。プラスでも終われないし、マイナスでも終われない。だからみんな何となくやっていけるのだ。休み下手も、働き下手も、休み上手も、働き上手も。
お母さんへ
あるお母さんへの返信
高2の古文の時間、本読み中に、突然声が震え出しました。それまで僕はどちらかと言えば人前が得意だったのです。岡山の高校に下宿して通い出し、高2の時にミス操山(高校の名前)と同じクラスになりました。それで、いいところを見せようとしたのでしょうか、声が震え、みんなの前で先生に指摘されたのです。40年前のことです。今でもその時の情景は鮮明に覚えています。その後、本読みが当たる授業はそっと校門から抜け出ていました。勿論、授業は受けたかったのですが。
大学に入っても英語とドイツ語の授業は苦痛そのものでした。しかし、大学はさぼっても卒業できます。当たることは逃げれば回避できます。しかし、一生人前にたてない人間になるのかと思って、苦悩しました。そこで考えたのが当時はやっていたフォークソングを歌い人前に立つって言う荒療治でした。歌は別に好きではありませんでしたが、当時は多くの若者が普通に歌っていたのです。あるコンサートに応募し、自分を追い込みました。僕の古い方のホームページに詳細は書いたような記憶があります。以来歌うことに限っては、どんなに多くの観衆の前でも大丈夫になりました。
牛窓に帰ってきて、漢方薬を始めるようになって、講演会にも時々招かれて、話をします。「牛窓から来ました、ペ・ヨンジュンです」「牛窓の福山雅治です」どちらかを自己紹介に使います。そうすると皆さん一瞬にしてくつろいでくれるので、2時間くらいしゃべり続けられます。くだけた言葉と笑いがあれば十分対応できます。
でも、ただ一つ僕には克服していないものが残っていました。人前で本を読むってことです。それだけが出来ないものとして、いつも心の奥にしっかりと沈殿していたのです。
それさえ出来れば、感情のおもむくまま、自制することなく自由に生きていけるのにと何度思ったでしょう。ありのままの、臆病で、神経質で暗い自分のままで過ごすことが出来たらいかに楽でしょう。 大人になったら人前で本を読む機会なんてありません。人生で唯一やり残したものとしていつも見えないプレッシャーに襲われていました。これを克服していないことがいつも負い目として感じていました。
一昨年ある神父様に出会い、洗礼を受けクリスチャンのなりました。それはそれで良かったのですが、何とミサには必ず聖書朗読があって人前に出て読むのです。これには参りました。でも、やり残していたことが解決できるチャンスでもありました。皆さんに作っている処方を初めて自分で体験するチャンスが来ました。ドキドキはしましたが、何と40年ぶりに声がふるえずに聖書が読めてしまったのです。これは感激でした。以来もう何回も読んでいますが、それなりに緊張はしますが、人に気がつかれることはないと思います。寧ろ僕なんかよりもっともっと緊張している人が多いことにも気が付きました。
最初の時だけ漢方薬を飲みましたが、二回目以降は飲んでいません。一度成功すれば後はそのまま行きます。本読みもパニックも、やはり克服したい気持ちさえあれば大丈夫です。
薬に頼って、一度成功することが大切です。知らない間に肝っ玉が据わってくるような薬と、予期不安を改善する薬をお嬢さんには作りました。きっと、トラウマから解放されます。ただし治るのは現場でですよ。
ヤマト薬局
英会話
薬局の前に中学校がある。毎夕5時に校内放送で下校を促している。生徒が放送するのだが、新学期から日本語放送の後、英語で繰り返している。いや、断言は出来ない。英語で言っていることが分からないから、繰り返しているってのは単なる想像だ。
ネイティブ以外の英語は、一つ一つの単語は聞きとりやすいが、文章としてはなかなか理解できない。発音なんかは、僕の中学校時代とほとんど差はないと思うのだが、それでも堂々と英語で話をしている。国の中に英語の需要があるらしく、生活の中で覚えた人は強い。単なる受験の手段だった僕なんか、受験が終わった翌日には全部忘れてしまった。もっとも英語以外もほとんど忘れてしまったが。忘れなかったのは、首に当たるカラーの窮屈さだけだ。何であんな不自由なものを生徒に強要していたのだろう。
高校を卒業後、英語で話をする機会もなかったし、必要もなかった。ところがこの年になって、東南アジアの人と同席する機会が増え、英語が話せれたらなと思うことが多くなった。意識して、NHKの英会話の番組を観るようにしたが、半年くらいして気が付いた。半年でたった一つのフレーズも覚えていないことに。15分番組を観て覚えたフレーズは、その後の入浴時間中に完全に忘れている。恐らく10分も僕の頭の中に留まることも出来ないのではないか。結局、電子辞書を買う期間が、半年延びただけに終わったのだが、無駄な努力と居直れる大人であることが後ろめたい。
たどたどしい発音が風に乗って聞こえてくる。その声の持ち主にエールを送りたい。
頭寒足熱
頭寒足熱。昔の人が言った言葉だが、現代でも当てはまる的を得た表現だ。心臓はまず上に向かって血液を送り出す。だから首から上や上半身は血液の循環がよい。逆に下半身は、足の筋肉ポンプで血液を心臓まで戻さなければならない。だからどうしても血液循環が悪い。その結果、上半身に血液が多い状態になり、下半身に足りない状態になる。頭の中は血液が巡りすぎるから、いらないことばかり考えて、イライラしたり、不安になったりで、感情のコントロールが出来にくくなる。充血状態だから炎症も起こりやすくなる。
社会の構造も同じことが言える。心臓で生まれた富や情報はまず上流へ流れ、そこから下流に拡散する。ほんの小さな集団である首から上には、富も情報もあふれかえり、パンク状態になる。適正な量なら上手く循環するのだが、集約しすぎてのぼせ状態になり、やがてくも膜下出血を起こす。およそ富や情報は理性なんぞではコントロールできない魅力があるのだろう。なかなか満腹中枢を満たすことは出来ないようだ。
下流に位置する人達は、届かない血液に筋肉を養ってもらうことも出来ず、やせた足をして日雇いだ、派遣だとこき使われる。脳を循環する血液をほんの少々分けてもらうだけで、立ち上がって又、歩くことが出来るのに。
人間の身体も、社会のシステムも、頭寒足熱がいい。首から上で働く人は、多くを抱えず足腰を踏ん張って働く人に分け与えるべきだ。いくら優秀な能力を持っていても、足が無ければ牛一頭、魚一匹、キャベツ一つ育てたり獲ったり出来ないのだから。
青春
僕は青年が 帰っていく後ろ姿を見て、何十年も前の自分の姿を重ねた。自分の後ろ姿は見ることは出来ないが、恐らく肩を落とし、少しうつむき加減で歩幅も狭かったと思う。胸を張って大股で闊歩する自信に溢れた姿など想像できない。青春時代、何か希望を持って取り組んだことがあるだろうか。価値あるものを追い求めたことがあるだろうか。腐敗した享楽と刹那に交差し、退廃の吐息を繁華街の朝の嘔吐のように、蒸散させていただけではないのだろうか。
余程才能に恵まれた人以外に、希望に胸をふくらませて生活出来るなんてことは滅多にない。今思い返してもその様な日々が果たしてあったのかどうかも疑わしい。深い失望も味わっていないのだから、何となく1日が過ぎて、何となく朝が来る、その繰り返しだったのだろう。青年時代は、することもなく、目標もなく、いわば「精神のその日暮らし」だったのだろう。別に精神の出稼ぎをするわけではなく、寧ろパチンコ屋の喧騒の中に捨てていた。
多くを望まなければ落ち込むこともない。期待しなければ裏切られることもない。ただ傷つかないように、傷つけないように、信号機の色が変わるのを待っていればいい。そうすれば行き先のないバスが停留所に着き、無賃乗車の客をひろって喪失がどよめく繁華街に落としてくれるだろう。青春とは終点にたどり着けない捨てられた切符だ。
朝
目を閉じていても眼瞼を透過する光の量で朝の位置が分かる。身体がまだ倦怠を引きずっていて、1日を始める決意に戸惑う。カン、カンとガラスとガラスが接触して音を出す。近所のおばさん達のゆっくりとした会話も聞こえる。今日は1ヶ月に1度のガラスゴミを回収する日なのだ。回収箱が薬局の前に置かれるから、早朝より近所の人がそれぞれガラス瓶を運んでくる。まどろんでいる僕の耳にガラスがたてる高音は、とても気持ちよく響く。どこにでもある、ありふれた日常の始まりの音だ。演出されない「生活の音」だ。山鳩が鳴き、鶏が泣き、烏や雀が鳴くように、朝を告げる音だ。ベルを鳴らし緞帳を上げなくても朝は始まる。人為を排した透明な朝の幕開けだ。
散髪
学生時代、5年間散髪をしなかった。その癖で、牛窓に帰ってもちょっと格式を問われる会合に出席するのに合わせてしか散髪はしない。髪型を理髪店で指示したりお願いしたこともない。シェフにお任せ状態だ。椅子に座ってから出来上がるまでほとんど目を閉じている。鏡に映っている自分を眺め続けるのは照れくさい。
10分1000円で散髪をしてくれるというチラシが入ったので行ってみた。シャンプーもしないし、ひげも剃らないのでさすがに早い。はさみで切った後、バキュームカーみたいなホースで髪を吸い取られた。仕上がりは上手なのか下手なのか分からない。普通の散髪屋さんに行っても分からないのだから、そもそもそのことに関しては問題はない。もともと散髪自体が好きではないので、満足をした経験もないのだが。
薬剤師会から送られてくる資料に薬剤師の心得として清潔ってのがある。学生を受け入れて指導するときも、学生の身だしなみをチェックする項目がある。自分自身が出来ていないのだから、学生に指導なんておこがましい。遠くから漢方薬を取りに来ていた家族連れが、白衣が汚れていますよと注意してくれたことがあった。白衣は中を守るためにあるのだから汚れてなんぼと答えた。その家族はそれ以来こなくなった。
誰にでも好かれるように振る舞うのは難しい。その結果何を得られるのか分からないから、無理してまで好感をもたれる必要はない。それよりも、他人に迷惑をかけない範囲で自分の価値観を貫いた方がいい。そのほうが心も身体も楽だし、相手まで楽だ。共通する価値観で結ばれる友情だけを大切にすればいいのだから。そんな対象は一生のうちで数人もあれば十分だ。
頑張るときは頑張る。手を抜くときは徹底して抜く。人間関係だって同じだ。頑張らなくてはならない相手なんてそんなにいるものではない。多くはその他なのだ。その他まで気を使っていたら身が持たない。孤立も孤独も昇華すれば孤高になる。恐れるに足りない。決して傷つけないこと。これさえ守っていれば汚れた衣服も身体も気にすることはない。いつか小銭が出来たらコインランドリーでドラムが回転するのを眺めればいいし、銭湯に行けばいい。だけど汚れた心は洗えない。500円玉一個では洗えない。本箱から埃をかぶった1冊を取り出さないと洗えない。すり減ったレコード盤に針を落とさないと洗えない。便せんを取り出し下手な字を連ねないと洗えない。大いなる力に膝まづかないと洗えない。
ホースで僕の髪は吸い取れても、誰も僕のこだわりまでは吸いとれない。
溜飲
今日のミサの中で神父様の言葉が、長年の溜飲を下げてくれたような気がした。
インドのガンジーが昔「キリストは尊敬するが、クリスチャンは嫌いだ」と言ったそうだ。理由は、クリスチャンがキリストを崇めながら、キリストに近づく努力をしないからだそうだ。キリストのように生きるように教えられながら、それを実行しようともしないからだそうだ。まさかキリストのように罪を一身に引き受けて死に葬られ、万人を救えとは言わないだろうが、少なくとも、虐げられた人達に愛を実行せよと言うことくらい、ガンジーはクリスチャンに期待したのだろう。ガンジーが接したクリスチャンの中に、尊敬できる人間がいなかったから、先のような言葉が出たのだろう。
実はこの僕も同じようなことを考えていた。長い間疑問に思っていたことが、今日の神父様の言葉で解けた。僕は信者ではないが、30年近く妻について教会に行っていた。正直、退屈なミサが早く終わってくれ、ラーメンでも食べて帰りたいなどといつも考えていた。目的はラーメンで、ミサは単なる途中の停留所だった。僕は我流でキリストの前に膝まづき、子供達の無事な成長を祈った。その瞬間だけは自分なりに懸命に祈りキリストと通じることが出来ていたように思う。ところが教会でも、家庭でも、心から尊敬できるクリスチャンには残念ながら会えなかった。クリスチャンであることだけで満足しているような人ばかりを目撃した。だから洗礼を受けてクリスチャンになることなど全く考えられなかった。歴史に残るガンジーでさえ、身の回りに尊敬できるクリスチャンがいなかったのだから、僕みたいな凡人の回りにあっと驚くような人がいるわけはないが、ああ、さすがにクリスチャンだと感心させられるような人もいなかった。僕が勝手にイメージしたものと比較して、クリスチャンの人には迷惑だったかもしれないが、部外者だからこそ見えるものも多かったと思う。
一昨年のある日、ラーメンのことで頭が一杯だった僕に衝撃的な説教をした神父様が現れた。(説教は怒ることではなく、良い話をしてくださること)以来、その方の話を求めて追っかけをし、それが縁で洗礼を受けた。自他共に認める不良信者だが、ほんの些細なことでもいいから、人のために無償の行為をしたいと思えるようになった。嘗て僕がクリスチャンの方に向けていた視線を、今では僕が受ける立場にいる。あの人が信仰しているのだから・・・とは未だ残念ながら一度も言われたことがない。あいつが信仰している程度だから・・・と言われないように、他の方の足を引っ張らないようにと下げた溜飲を又元に戻そうと思っている。
恐らく教会に通う全てのクリスチャンが、一瞬でも人のために何かをしたいと思わないことはないと思う。説教を聞く度に少しは改心する。それが実行移されるかどうかが問題なのだと思う。実践を強調される若き神父様の表情がまぶしい間、僕は不良から脱出できないだろう。
(教会に通いだして、熱心な信者さんが地道に色々な活動をしていることを知った。本当に愛を実践している人達は、表には出ないことも知った。それらの方々とは信仰の面で雲泥の差があり今も、恐らく将来も足元にも及ばないだろう)
間合い
「体調も良くなったけれど、漢方薬で綺麗になったのではないの」と半分冗談、半分本気で言った。突然恋人にもうこれまでと宣告された彼女に、そんな男はだめだから(経過を聞いた上でのこと)別れ話を切り出されのは幸運だと以前言っていた。その後再挑戦したらしいが返り討ちにあって、それがきっかけできっぱり心の中も切れたらしい。別れを持ち出す側の方が後に引くから、ふられた方がよい。「先輩が次を紹介してくれる」と、笑顔で言っていたから、立ち直りの早い子だ。しかし、冗談ではなく実際最初に来た頃よりはずいぶん美人になったような気がする。それは恐らく僕が彼女の人格を理解し始めて、人物としての彼女を見ることが出来るようになったからだろう。最初は体調不良を訴えて漢方薬を希望している子でしかなかった。2週間に一度会うたびに、身体のこと以外の会話が増えて、彼女の考えや行動を垣間見ることが出来るようになった。地方に住む若い女性が、家族に守られて、友情を育み、労働を提供し収入を得る。人を好きになったり、職場の人間関係で悩んだり、映画になるほどの華やかさはないが、それでも懸命に生きている素敵な営みがあった。
今日は土曜日なので、処方箋調剤がほとんど無く、僕の好きな昔ながらの普通の薬局でおれた。半分以上の人が漢方薬を取りに来る人で、遠くから来ている人が多かったので、ゆっくりと雑談を挟みながら応対をした。娘と妻が午後からいなかったので、88才の母と2人で切り盛りした。そんなに忙しい薬局でもないが、1人で全てをこなさなければならなかったので、母のお茶を勧める間合いに救われた。
時代の流れだから仕方ないが、今日一日を振り返って気付いたことがある。僕は、ドラッグストアでは治せない軽いトラブル、病院が苦手とする症状が多岐に渡っている病気、その両極端を期待されているみたいだ。本当はその真ん中こそが薬局の守備範囲なのだろうが。
僕自身の体調が良かったせいで、今日はとても多くの会話を楽しんだ。昔なつかしい薬局の中に僕と母がいた。50年の歳月が茶色に焼けた白黒写真の中からあぶり出された。
手ぶら
今日、中部地方から訪ねてきてくれた青年は、何の荷物も持っていなかった。帰りにはさすがに薬を持って帰らなければならなかったので、紙袋を持つことになったが、手ぶらは、嘗ての僕たちによく似ていた。ジーパンにTシャツ、運動靴。ただそれだけでどこにでも行った。ポケットに財布があればそれだけでよかった。思いついたらすぐ行動し、何も持っていかない代わりに、何も持って帰らなかった。
住所を聞いたら、とても立派そうなマンションの名前を教えてくれたから、豪華なマンションかと尋ねたら、ボロで名前負けしていると言った。嘗ての僕らには、いいも悪いも選択肢はなかった。全部ボロだった。たまに間違って、並の所に住める人もいたが、ほとんどが○○荘と言う名が相応しいところに住んでいた。
何となくその青年と話をしながら、嘗ての僕自身や仲間達の生活ぶりを思い出した。記憶の中から当時の仲間がでてきたような印象を持った。田舎から都市部に出て、不毛の日々を送った。金がなかったから、繁華街を彷徨い、喧騒を食って精神の飢えをしのいでいた。秩序は自分の中で解体し、一本足でアーケードに張られた綱の上を歩いていた。拠って立つところがなかった。将来に不安を持つほど堅実ではなかった。目を閉じれば、パチンコ台のチューリップがひとり明日へ誘ってくれた。時間はマンホールの底で淀み、あることが苦痛で、無いことが解放だった。
思い立ってすぐ訪ねてきてくれた手ぶらの青年が、心の中まで手ぶらになった時、青春の落とし穴から抜け出せる。
健康
肝に銘じていることがある。この夏は、冷たいものを飲み過ぎない。窓を開けたまま眠らない。この二つだ。去年体調を崩した遠因は恐らくこの二つだ。1ヶ月以上不快な日々を過ごしたが、のど元過ぎて熱さ忘れる状態にあることにふと気付き、時折自分を戒めている。
消化器系をとことん弱らせてしまうと、精神まで弱ってしまうのを昨年経験した。何らかのストレスが続き精神が衰弱するのは納得がいくが、胃腸の機能が落ちているところに、ありふれたウイルスでも入ってきて、起きれないような状態が続くと次第に心細くなり、心が病んでいくようだった。目の前に茶碗を持ってこられても、箸を付けることが出来なかった。体力には自信はないが、病弱と言うほどでもないから、ほとんどのトラブルは半日から2,3日で治っていた。そんな嘗ての基準からしたら、1ヶ月あまりの不調は自分でも許容できないものだった。二十歳の身体が一気に老人のそれになったような乖離を感じた。その間の様子は、漢方で言うまさに「脾虚気虚」だったのだが、自分がその状態に陥っているとはつゆ思わなかった。だから自分がその状態だと気づくのにかなりの日数を要した。自分のことは分からないものだ。冷静さも客観性も失ってしまう。
ただ、不愉快で不安なそれらの日々は、僕に又一つの知恵を与えてくれた。教科書の上ではなく身をもって知った症状は、以後数人の方に役に立った。同じような人はいるものだ。一見元気そうに見えて実は、夜は寝苦しくて寝汗をかき、動悸がして眠りが冷め、不安のうちの朝を待っているような人達だ。どこにストレスがあるのだろうと、見事に隠している人でも、症状は嘘をつかない。幸せごっこは、いつかはほころぶ。僕も10月頃はそうだったんだと話すと、堰を切ったように不調の原因を話してくれる。こんな時は、自分が元気すぎないのが役に立つ。症状の理解がしやすいから。
この年になったら健康で毎日を過ごすなんてのは至難の業だ。毎日日替わりで不愉快な症状が出てくる。何とかごまかして日々を送っているが、いつまでごまかしきれるのだろうと不安が増殖する。仕事を辞めてのんびりと過ごせば健康になれるのか、いやな人に会わないようにすれば健康になれるのか、暖かいところに転居すれば健康になれるのか、病気になるほど薬を飲めば健康になれるのか。いやいや、この年まで頑張って働いてきたのだから、どこも悪いところがない健康体だとしたら、それほど不健康なことはないのかもしれない。
朝
「似なくてもいいところばかり似る」とは、言い古された言葉だが、似て欲しい所などないから仕方ない。可哀相な気もするが、全て自分の個性として付き合ってもらうしかしょうがない。
娘が薬局製剤という本に従って、水虫の薬を作った。主成分の粉薬を仕入れて軟膏板の上で練って作っていた。僕も以前挑戦しようと思ったが、煩わしさと効果の程が分からなくて挫折していた。過日、薬剤師会でその薬の作り方の講習があり、早速帰って材料を取り寄せていた。行動がとても早かった。
もし効果があるなら、メリットはとても安いってことだ。流通している水虫薬の半値くらいだから喜ばれるだろう。効果がなければデメリットはかなり大きい。薬を作ったヤマト薬局が悪いことになる。製薬会社の責任には出来ない。僕はどのくらい効果があるのか知りたかったので3人に出してみた。昨日今日とそのうちの2人が漢方薬を取りに来たので、尋ねてみると2人ともかなり効いていた。糖尿病のおじさんの足の水虫は、白くふやけて痛々しかったが、一見しただけでは分からないくらい改善していた。もう1人の漁師さんの足は見せてはもらえなかったが、よく効いていると太鼓判を押してくれた。実は娘が作ったんだとうち明けたから好意的に話してくれたのかもしれないが、無くなったら又取りに来ると言ったからまんざらおべんちゃらでもないのだろう。娘は調剤室でおそるおそる僕等のやりとりを聞いていたが、良い返事をもらえたので胸をなで下ろしていた。自分が作った薬を初めて飲んでもらうときは緊張するものだ。僕が漢方薬を覚えて帰るたびに牛窓の人に飲んでもらって、効果を確認していった頃を思い出す。望んで就いた職業ではなかったから、全てが手探りだった。これはと言うものに出会えたのは牛窓に帰って10年目だった。
探し物は大通りを歩いていては見つからない。路地裏に紛れ込み、カビくさい土壁が落ちた坂道を、捨て猫に導かれながらうつむいたまま、猫にもなれず、人にもなれず歩いた時、向こうから姿を現してくれる。凡人には空は大きすぎて、海は広すぎて、夜は深すぎる。竹藪をすり抜けて嗅覚に吹く風に、ただただ翻弄されて朝を待つ。向こうから姿を現してくれる朝を待つ。
光
最初初めて会った時、この子を治せば過敏性腸症候群なんて全員治せると思った。関東から2回訪ねてきて、3回目を迷っている間に治ってしまった。今頃どうしているんだろうと妻と話していると、1年ぶりのメールが突然入ってきた。
当時、JRの深夜便で乗客がまばらな時間帯以外には電車に乗れなかったのに、今はバスの前の方の席にも何の心配なく乗れるそうだ。ガス漏れに関しても100%克服している。数年間の苦しみ自体も思い出すこともあまりないらしい。それはそうだろう、何と彼が出来ていて、相談は自分のことではなく彼のことだったのだから。元々、文章がとても得意な人だったから、以前もそうだったが、彼の症状についても非常にわかりやすく丁寧に書いてくれていた。彼女の、彼に対する思いやりがとても表されていた。
2度目に訪ねてきたとき、夜、彼女と妻と3人で土手をヨットハーバーまで一緒に歩いた。その光景が一番印象に残っている。入学した高校がまさに家の前にあり、結局は学校に行くこともなく過ぎた3年間を回顧する彼女が不憫だった。どんな気持ちで校門に消えていく学生の姿を見ていたのだろう。どんな気持ちで放課後に聞こえる歓声を聞いていたのだろう。見ず知らずの僕らと過ごした数日が彼女の人生を救えたとしたら、都落ちするように田舎に帰ってきた僕自身が救われる。しかし、よくよく考えてみればいつも救われているのは僕の方なのだ。壊れそうな精神を水面に浮かべて映るのは、僕自身の姿なのだ。光は必ず空から降ってくるとは限らない。湖底からはにかみながら浮かび上がる光だってあるのだ。僕はそんな光に照らされている。
夜景
あれから1年になる。去年の連休に、薬を送っている中部地方の人達に会うことと、先輩に会うことを兼ねて岐阜に行った。不意打ちを食らわしてやろうと思ったのでビジネスホテルを予約しておいた。予約しておいて良かった。泊まれとは言わなかったから。言われれば、ホテル代などどうでも良かったのに。夕ご飯は、若者ばかりが目立った駅裏の料理屋でごちそうになった。ごちそうになったというには食べたものがお粗末だったから、「おごってもらった」くらいの表現が正しいかもしれない。
その先輩が急に電話をかけてきた。僕らが電話で話をするのも10年ぶりくらいだ。年賀状だけでまだ生きていることを確認するくらいの密度だ。ある悩みに僕の体験が慰めになるのだろう、長電話になった。話の中で、照れながら「億ションを買った」と言った。僕はその言葉が最初聞き取れなかった。そんなものに縁がないから、オークションに聞こえたのだ。聞き返したから余計照れたのかもしれない。買った理由を言っていたが、あまりピンとこなかった。岐阜の街を見下ろす高層マンションの最上階で、何を手に入れようとしたのか分からない。
学生時代、先輩はちり紙交換をしていた。針金細工を路上で売っていたもう1人の先輩に、経済的によく助けられていた。僕より1学年上の劣等生だった。劣等生には劣等生の臭いがして、僕らは何となく親しくなった。向こうも、こっちも留年したから、4年間一緒にたむろしていたことになる。尊敬できるところなど全くない。見習わなければ良かったと思えることばかりだ。だけど、不思議なことに、何もかもが受け入れられるのだ。そして何もかもが受け入れてもらえるのだ。要は似ているのかもしれない、価値観が。
「今度泊まりにこいや」と、さすがに今回は誘われたが、最上階の豪華な部屋で、カップヌードルを一緒に食べるなら行っても良い。僕らに夜景はいらないし、身を沈めるソファーもいらない。薬大で落ちこぼれ、病院勤務時代に結核になり、その後医者になった経歴だけで十分だ。それこそが、上流階級が似合わない根っからの落ちこぼれ学生の勲章だ。 白衣を着て診察室から出てきた先輩をみて、冗談だろうって声をかけたくなった。僕らの5年間がまるで冗談だったのだから。未だ続けている冗談に夜景もあきれるだろう。
雀
人が死ぬ前に後悔することに、およそ3つのことがあり、施しをしなかったこと、耐えなかったこと、幸せでなかったことだそうだ。これを聞いてなるほどなと思った。僕も年齢と共におぼろげながら感じるようになってきたものばかりだから。
何事も簡単に手に入れようとは思わなかったが、基本的には手に入れることのみが目的だったような気がする。子育てが終わった頃から、そんな生き方に満足できなくなった。手に入れたいものがなくなったのではなく、手に入れても満足をえられる確率がとても低く、空しさの方が数段上回り、虚無感しか残らなくなったからだ。特に物はもういい。自然を破壊して作ったものに囲まれても、動く範囲はせいぜい4畳半の畳の上だし、着る物も履く物も2つあればすむし、食べるものも米1合半でいい。人は空手で生まれ空手で去っていくという。途中も出来るだけ無駄を省いて、空手に近いのがいい。まして心はそうありたい。
耐えなかったことは数え切れないくらいある。そのおかげで今の自分しかない。あの時、あの時と時間をさかのぼって考えてみれば、今の自分はあり得ない。耐えなかった度に大鷲(?)は飛ぶ位置を低くし、今では田圃で稲穂を盗む小雀になってしまった。益鳥と呼ばれることもなく、かかしに追われる有様だ。
不幸ではなかったから幸せだった。これは、幸せでなかったから不幸だったとは両立しない。幸せを測れるのは、全く個人の秤しかないので、価値観を他人と比較することは出来ない。およそ価値観に近く生きれた人は幸せ、そうでない人は悔いが残る。人が価値観を追いかけるのか、価値観が人に付いてくるのか分からないが、動じない物差しを早く手に入れた人は悔いが少ないと思う。
満足を深くするために、日々の悔いを浅くして、上昇気流をつかんだ渡り鳥のように、何もない、まさに空(くう)の空を飛んでみたいものだ。
いいこと
綺麗にお化粧をしているから、一瞬目を疑った。大きな紙袋からお土産を取り出した。僕が甘党だと言うことも知っているし、和菓子より洋菓子が好きなのを知っているから、当然洋菓子だった。それを確かめてからお礼を言った。
数年前最初に来たとき、彼女の希望は、頻繁に起こる下痢と数十分間隔の尿を何とかしてくれってことだった。しかし、それはあくまで周辺部の症状で、本当の不調の原因は統合失調症だった。統合失調症で薬局に相談に来る人なんか1人もいないから、僕の仕事は勿論その周辺部の不快を治すことだった。主治医の先生の理解もあって、腸と尿は僕の漢方薬だけで対処することになった。彼女は言葉では表せないくらい苦しい症状で戦っていた。僕は漢方薬を出す頻度を無理に短くして、1週間に一度会えるようにした。僕の心が折れない程度に彼女の話しを聞くことに徹した。漢方薬は幸いなことに病名に拘らず、症状にあわせて作ればいいので、つらい過去から逃げれるような処方を薬局製剤の中から選び出し、それを飲んでもらった。(勿論、僕の勝手な解釈で普遍性があるかどうか分からない)
それが功を奏し、何と統合失調症が徐々に良くなってきたのだ。主治医の先生も喜んでくれた。「何もかも捨て去りたい」その思いを漢方薬で実現できれば心が軽くなるに違いないと思った。案の定、苦しんでいた症状がずいぶんと改善できた。もう数ヶ月前から僕の薬を止めているが「わたし、治るような気がする」と、今日言った。「もう治っているような気がする」と僕は返した。
今朝一番に薬を取りに来た友達のような女性に「何かいいことない?」と尋ねられ、「何もない」と答えた。2人で「何がいいことかも分からないね」と慰め合ったのだが、いいことはちゃんと正座して障子の向こうで待っていてくれる。それに気付かないのは強欲が五感を麻痺させているからだ。何年も笑顔を忘れていた人が、大声で笑う。漢方の実力はないが想いは確かに伝わった。今の僕にとってこれに優る「いいこと」はない。
喝采
20年前、町内にバレーボールのスポーツ少年団を作った。仕事柄それに没頭できないのでコーチとしていつも補佐をしていた。熱心な指導者がいて彼が監督をずっとやってくれている。年度によってずいぶん差はあるが、素質がある子供達が揃ったときには田舎町のハンディーは感じられなかった。
年間を通して忙しいくらい試合があり、色々なところに出かけていった。熱心な親がいつも応援に来てくれていた。県内でベスト8まで行ったこともあり、その時には名門中学から誘いもあった。試合は勝たなければならないらしくて、いつもベストメンバーだった。常時出場する子は決まっていて、なかなかそれ以外の子供達には出番がなかった。生徒数が少ない町だから、メンバーは少なく、試合に出れない子の方が寧ろ少なかった。僅か数人がいつも試合になると応援か、運が良くてもピンチサーバーくらいの出番だけだった。僕は監督でないから、選手の起用に権限がなく、いつも控えの子供達のことが気になっていた。楽しそうに試合の時以外は一緒に遊ぶ子供達に、心の垣根を作ってしまっているように感じて心苦しかった。
ある時、僕だけが引率して試合に行ったことがある。僕はその時、いつも控えに回っている子供達を、一番脚光を浴びるポジションで先発起用した。当然負けたのだが、それは大した問題ではない。長年、同級生のためにコートの外で応援し続けた子供達に報いたかったから。僕がショックを受けたのは、応援している親が途中から会場を出ていったことだ。それも、今まで常に脚光を浴びていた子供の親たちが。自分の娘がコートの上にいないから応援する気にならなかったのだろう。今まで、その立場に数年甘んじてきた子供やその親のことは頭によぎらなかったのだろうか。バレーが少し上手いくらいで、人格に何ら差があるはずもない。バレー以外のところで、それぞれの子供達がそれぞれの才能を持っている。何故あの時下積みの子供達に最大限の応援を送らなかったのか。
優劣を測るものは巷に溢れ、競い合いを強いられ、まるで競馬の馬のように走り続ける。鞭をいれられただただ走り続ける。一番でテープを切るために。人生で一番のテープは何なのか。幼いときから喝采を受け、名声を高めることか。多くの人を従え、多くの富を手にすることか。
コートに立てない子は補欠ではない。誰もが主役だ。バレーで勝つってことは先に21点とることではない。勝つってことは、持って生まれた才能で差別し人を傷つけないこと。どの子も等しく喝采を浴びること、僕はそう思っていた。試合で負けても想いで勝てばいい。
天性
股関節を患っている方は、幼い時からずっとの方が多い。若い時は筋力も柔軟性もあるから、それほど困らない方もあるが、それでも運動をするのはハンディーがある。大人になるにつけ、不快症状は増し、痛みと同居しなければならなくなる。
もう3年くらい僕の漢方薬を飲んでいる女性がいる。最初、相談に来た頃はかなり痛みがきつくて、階段はかなりの障害物だった。仕事柄東京に行かなければならないことが多かったらしいが、いつまで行けるのだろうかと内心不安だったらしい。僕の漢方薬が功を奏し、現在は痛み止めとも縁が切れたし、どこへでも飛んでいくくらい元気になったらしい。(本人談)
症状経過はともかく、僕がその方に圧倒されるのは、症状が軽くなった今も、3年前も変わらず「メチャクチャ明るい」ことだ。僕より数才年上だから、40年はそのトラブルで不自由を味わっているはずなのに、表情や声に全く陰性のものがない。大好きな仕事が出来なくなるかもしれないと言う予感の中でも、その方はいつも笑っていた。声も大きくしっかりしていた。一番快活な頃、一番美しかった頃、どんな女生徒だったか分からないが、恐らく彼女なら今と同じように快活に笑っていたのではないかと思う。
たまに彼女のように、ハンディーを抱えても絶えず笑っている人がいる。何ら作為的なものでなく根っから笑っているのだ。それは、目を見れば分かるし、口を見ても分かる。まるで無防備に屈託なく笑う。僕の方があげなければならない元気をくれる。きっと回りの人達に一杯元気を配っているに違いない。何が彼女をそうさたのか知るよしもないが、僕は何故か天性のものを感じる。後天的に逆境の中で作られるのだろうか。僕など壁にぶち当たれば、嘆き悲しみ取り乱す方だから、彼女のおおらかさにはとうていかなわない。それがもし彼女の生い立ちの中で積み重ねてきた人徳なら、ショックだ。あまりにも心がけが違いすぎる。せめて天性のものだとしたら、こちらは救われる。持ち合わせている人と、持ち合わせなかっただけの人間の違いでしかないから。
少しびっこを引きながら、大きな声と笑顔で入ってくるが、圧倒的な陽気で空間が覆われる。それに引き替え僕の心の中は陰気が立ちこめ、精神が足を引きずっている。
思い込み
ある薬が、縦15cm、横30cm、奥行き20cmくらいの箱に入っている。希望者に、希望の日数分分けるようにしている。必要なだけ手にはいるので結構好評だ。必要もないのに、大入りを売りつけられてはかなわないだろうから、親切で始めた。意外とそれが人気が出て、1日数人が取りに来る。在庫を切らさないようにしなければならない薬の筆頭になっている。だからその在庫には気を付けている。
前日その薬を沢山の人が取りに来て、在庫が少なくなっているのではと、何となく気になっていた。朝には注文を出しておかなければ、翌日分はおろか、当日分も心持たなかった。そんな心細い日に限って、開店してまもなくその薬を取りに来る人がいる。ほとんど狙い撃ちだ。早速必要分だけ数えて渡したが、ひやひやものだった。顔では笑って薬を渡したが、すぐに注文を出さなければと内心焦っていた。その時間帯なら当日配達で薬が手にはいるから。僕は調剤室に急いで入り、バーコードを読み込ませて発注しようとした。その薬箱を手に取ると、何と新しい箱がちゃんと用意されているではないか。今手に取った箱の奧に密着して。さっき、薬を渡すために同じ動作をしているのに見えていなかった。あんな大きな箱が、僅か目の前30cmの所にある箱が。
僕は、朝からその薬の欠品ばかり気にしていた。その薬の予備が「ない」と言う前提で思考し行動していた。だから、目の前に鎮座していたその箱が目に入っていないのだ。思い込みもここまで徹すれば大したものだ。見えるものさえ見えない。聞こえるものさえ聞こえない。臭うものさえ臭わない。あるものさえないのだ。人の思考は、現に存在するものを易々と越えていく。僕なんか凡人だから、品薄の薬があるだのないだののレベルでしかないが、この思い込みも昇華させれば、芸術や文学になる。芸術家や文学者はいわば思い込みの天才だ。
片方にマイナスの思い込みもある。心優しい人達は、ない症状をまるであるがごとく抱えてしまう。理論を越えて症状を作ってしまう。青春の落とし穴に落ちて、思い込みの牢獄に捕らわれている。幻を追いかけるのは罪がないが、幻に追いつめられるのは悲しすぎる。目の前に起こっていることを、視点を変えて、反対から眺めたらどうだろう。いったん否定してみること。もしそうでなかったらと。それが出来れば、目の前の箱くらいは見つけられると思う。
不安
季節の変わり目で、体調や心を乱している人が多く、悲鳴が伝わってくる。もれなく元気になって欲しいと心から思うが、自分の非力さがうらめしい。
見渡せば、何の健康不安もないがごとく人々は行き来する。自分だけが選ばれてこんなに不調なのかと、独り涙する。不運を嘆いて何かのせいにすれば心はつかの間の安息を得られるが、鏡に映る自分の姿をごまかすことは出来ない。テーブルの上に重ねた不安は天井に届き、カーテンを揺らして吹き込む風に飛ばされる。気を強く持って、足を踏ん張り仁王のように立ちはだかっても、島の向こう側に落ちる夕陽を1秒たりとも引き留めることは出来ない。
僕らは知的動物。勇敢には出来ていない。不安こそが命の綱。不安こそが生産。不安こそが希望。軟弱にして頼りない心にこそ宿る魂。不器用な日没に感謝。
臆病
まだ見ぬ貴女に
僕は高校時代、古文の時間に突然声が震えだし、僅か1ページの本読みが永遠の時間の長さのように感じました。それ以来本読みが当たりそうな授業は全部、そっと校門から抜け出ていました。高2の時です。僕もあなたと同じように浪人しました。その後何年もかけてかなり克服できましたが、青春時代いつもそのハンディーと共に生活しなければならなかったのは、つらかったです。若かったし、何も守るものもなかったので結構やばいこともしましたが、ただ人前で本を読むことは出来ませんでした。いわゆるトラウマなのです。
娘が突然、学校を休みたいと言って帰ってきたのも、高校2年生の秋でした。僕自身の経験と、父親としての経験、又薬剤師としてあなたと同じような人を450人くらいお世話した経験から言います。親に訴えるべきです。恥ずかしいことでもありません。素人だから最初は親はとまどうかもしれませんが、話せば、あなたが苦しんでいることは分かってもらえます。症状が分かってもらえなくてもいいのです。苦しんでいることが分かってもらえればいいのです。このトラブルは1人で挑むには敵が強すぎます。敵が自分自身の中にいるからです。回りを巻き込んで、一緒に戦うべきです。かく言う僕も自分の過去を口に出せれたのは、つい最近なのです。あまりにも過敏性腸症候群の相談が多いので、自分の過去を正直に公表して、若者達を救いたかったのです。今は僕の家族も、親類も、嘗ての仲間も皆知っています。ずっと上手く逃げ回ったので、誰も気が付かなかったのです。でも、僕は苦しくて苦しくて仕方ありませんでした。本当の自分を隠して、快活で冗談好きで明るい僕の異なったイメージが一人歩きするのが、いやでした。こんなに臆病だから助けてと、あの頃訴えていれば良かったとつくづく思います。
でも、このトラブルになってからあなたは失ったものばかりではありません。恐らく「謙遜」と言う名の美徳を身につけたと思います。これが身に付くのはとても難しいのです。
得ることばかりの人生では決して身に付きません。大切なものを失ってこそ気付く心のありようだと思います。あなたは決して治らないトラブルと対峙しているのではありません。僕は過敏性腸症候群は病気だなんて全く思っていません。あなたのとてもすばらしい個性だと思っていますよ。
ヤマト薬局
僕が薬を送っている人以外に、ブログの読者がいることを知った。知らない町の知らない人に今朝返信した文章を、その人の許可を得て、知らない町で1人で悩んでいる人達に届けたい。
無言電話
漢方の研究会の帰りに、あるスーパーに寄った。丁度夕食の買い出しの時間だったのか沢山の人が買い物をしていた。その時間帯にスーパーに寄るようなことがないので、こんなに人が集まるのかと感心した。
いくつものレジがあり並びかけるのだが、どのレジにもかごから溢れそうになるくらい買い物をしている人達が並んでいて、なかなか進みそうにない。数カ所を行ったり来たりして、結局最初のレジに並んだ。レジ台の上で買い物かごからいちいち品物を取り出し、値段を打ち別のかごに入れ替えるので、他人が買ったものが全部見える。若夫婦のような人達、おばさん達が多くいたが、見るつもりはないけれど、よその家庭の台所をのぞき見しているようで興味深かった。忙しい現代だから理想を言うつもりもないし、理想通りでは味気ないので構わないのだが、全体的にはどこの家庭も脂質が多いように感じた。茶色のものが目立った。逆にかさばるはずの緑は少なかったように思う。たまにかごの中から頭からしっぽまで揃った魚が出てきたりすると、買った人の顔を見たくなったりする。
薬剤師根性はさておき、驚いたのはレジ係りと客との人間としての交通のなさだ。何に例えたらいいのだろう。そうだ、公然と行われる無言電話だ。レジ係はうつむいたまま淡々と値段を読み上げ、客は、ある人は視線を読み上げられる品物に集中し、ある人は遠くに視線をやり、会計の間中、挨拶もなければ視線も合わせない。僕が短い時間で目撃した人達全員がそうだった。恐らく客にも礼儀を教えなければならない子供や孫がいるに違いない。また、職場では失礼のない立ち居振る舞いが要求されているだろう。それなのに、ちょっと強い立場になったときのこの態度は何としたことか。それで日常背負わされている負い目の憂さが晴らせるとでも言うのか。まるで暗闇で見ず知らずの人とすれ違うような不気味さを感じた。
僅か数十センチの距離にいる人と人とが、何ら意思表示をせずに一緒におれる社会は寂しい。無視したり、警戒したりと、およそ精神にはダメージだ。私はあなたの敵ではないよと、人間にはとても素敵な交通手段が備わっているのに。微笑みと言う。
ちなみに僕は、レジ係の値段の読み上げにいちいち返事をし、お礼を言って外に出た。もっとも買ったのは夕食用の「尾道ラーメン」2つだけだったが。
受動喫煙
ガンや循環器系の疾患ならいざ知らず、糖尿病にも受動喫煙は関係しているらしい。受動喫煙が起こりうる環境にいる人は、そうでない人に比べて1.8倍糖尿病になる確率が高いらしい。この情報を目にして「良かった」と胸をなで下ろした。
たばこを止めてもう20年にはなると思う。元々元気ではなかったが、たばこは好きだった。食後の一服は確かに美味しかったし、コーヒーと音楽が揃えば、薄暗い喫茶店の隅で青春を泥まみれにするお膳立ては揃っていた。牛窓に帰ってきて、一応堅気にはなったが、それでも唄とコーヒーとたばこは止められないでいた。年齢と共にたばこを吸うと吐き気がし出した。それでも中毒だから止められないでいた。何度も決心するが、1日も止められないでいた。
そんな僕が止めれたのは、当時まだ幼稚園にも行っていない娘が「お父さん、たばこ止めた」と良く来るお客さんに話すのを傍で聞いたからだ。幼い子供が僕にたばこを止めさせる意図を持って口から出したとは考えられない。止めて欲しいと訴えたのだろうか。父親の機嫌を損なわないようにと配慮するとも考えられない。うそなどまだ付けない幼子の心を裏切らないために、以後懸命に努力して止めた。
あれから、嫌煙の気運が徐々に強くなり、健康被害についても沢山の研究がなされた。嗜好品だから日常的に存在し、市民権を得ているから、いわば最強の壊し屋かもしれない。悪いのは、楽しんでいる本人より、傍にいる人の方が健康被害を受けやすいと言うことだ。 無駄に命を削る必要はない。これだけ不自然が身の回りに溢れていれば、生きているだけでも命は削ってくれる。磁石のように敢えて不健康を集める必要はない。いくら思いっきり口から煙をはき出しても、鬱積した心を吐き出すことはできない。せいぜい昨日ひらって来たレントゲン写真に血痰を落とすくらいが落ちだ。
終点
新しいページを捲るのは、若者の特権。僕ら世代にはそのチャンスも少ないし、好奇心も弱い。おまけに決断力にもかけ、なかなか一歩を踏み出せない。新たなステップに死にものぐるいで挑戦した人達から、近況が入る。
洗練されているように振る舞う必要はない。ばた臭く、まるで田舎者のように、振る舞えばいい。化粧はしなくてもいい、流行は追わなくてもいい、うさん臭いものは知らなくていい。
友情は育んだ方がいい。人生の友を1人か2人見つけるといい。見つけたら、弱みを全部さらけ出し、500円くらい貸したらいい。どこに行くにも一緒に行って、捕まらない程度のいたずらをし、誉められない程度の善行をすればいい。
強いものは信じないのがいい。強いられればへりくだって、チャンスを待てばいい。弱いものは信じてやるのがいい。だまされるほど信じ切ってやるのがいい。水は岩を削ることは出来るが、岩は水を削れない。
春は希望ではない。単なる変化だ。力まないのがいい。所詮4つの季節のうちの一つに過ぎない。乗り遅れたってバスは又来る。終点のないバスは又来る。
菖蒲
濁って何も見えない小さな庭の池から、数十本の菖蒲が凛として背筋を伸ばしていた。沈殿したヘドロから命がまっすぐと育っている。主の手が加わらなくなった家の前の畑には、菜の花が鮮やかに存在を誇示し、大根がやせ細ってもなお生きようとしていた。陽光は田園に点在する集落を優しく照らし、草の匂いは穏やかに風に乗り、時間はためらいを持って、玄関先で立ち止まっていた。
亡骸は呼吸を失ったのか、拍動を忘れたのか、笑いが去ったのか、涙が枯れたのか。もはやたった一つのものさえ動かすことが出来なくなった亡骸は、家族の心の中に住まう。山はあり、川は流れ、鳥はさえずり、人は行き交う。何も何も変わらない。遠くのあぜ道で、葬列を見送り独り涙する二重の老婆。命は体温か、命は微動か。
一秒
嬉しい知らせが届いた。いつものように短い文章だが、喜びは十分伝わってくる。十月十日、よく頑張ったと思う。お母さんになるべく少しずつたくましくなっていった。関西人のシャイの典型みたいで、斜に構えながらもちゃんと物事を見ていた。
僕は1人の女性の復活を漢方薬を介してずっと見せてもらった。何も出来なかった女性が、遅ればせながらに、普通の女性がたどる道を歩んでいる。家から出られるようになり、仕事をし、恋愛をし、結婚をし、ここで赤ちゃんを得た。○○ちゃんがいれば幸せという言葉で、空白の数年間が新しい命で満たされたことを感じる。
過敏性腸症候群は青春の落とし穴だ。いくつも用意された中のひとつだ。誰がいつ落ちるか分からない。浅い穴もあれば暗くて深い穴もある。深い穴の中で、もがけばもがくほど、身動きとれなくなる。穴から出るには、ロープを投げてもらうか、はしごを降ろしてもらうしかない。ロープを投げる人は、医療関係者かもしれないし、家族かもしれない。ロープやはしごは、現代薬かもしれないし漢方薬かもしれない。でも一番大切なことは、穴に落ちた人が声を上げることだ。大きな声を出して、助けを求めることだ。そうしないと地上の人は誰も気がつかない。分かってくれないと嘆くのではなく、自分を、自分の苦しみを訴えることだ。お腹のことで、青春を無為に過ごすのはもったいない。ほんの一秒勇気を出して、助けてと叫べば、以後何十年の解放が待っている。
教科書
いやはや誰にも悩みはあるものだ。世間的には何不自由ないと言うよりも、恵まれすぎくらいに見える人が、昨夜電話の向こうで話し続けた。話すことでストレスを幾分か捨てようと思ったのだろうが、幾分どころかかなり捨てれたのではないかと思う。こちらにずっしりと移って来たから、このずっしり分はあちらが軽くなっているはずだ。
家庭内のトラブルは外に出ないから、なかなか理解しづらい。外に出たときには悲惨なニュースとなって新聞紙に載ったりする。その人もそれを心配していた。こちらから見ていたら、もっともその類から遠そうな環境にいる人なのだが、こと家庭のこととなると、どんな状況証拠も役に立たない。
解決方法はと聞かれたから、愛情を持って見守ることなどと教科書みたいなことを答えた。何人かが同じことを助言してくれたと言った。気の利いた答えなんか見つからない。単純だからこそ困難な方法しか思い当たらない。
家庭から分かち合う食事が消えた。家庭から笑いが消えた。家庭から信頼が消えた。家庭から希望が消えた。残ったのは畳に残ったシミと人々の心に寄生した青カビだけだ。